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夜のおつまみ

夜な夜な酒のつまみになる何かを探してさまよった記録です。

東京の大学に入ってうちがどれだけ貧しいか知った

こちらのエントリを昨日読んで、約20年前のことを思い出したので。

anond.hatelabo.jp

「東京の大学に入ってうちがどれだけ貧乏か知った」ということですが、別に、この作者は、東京の大学に入る以前の問題として、貧乏です。ど田舎のアパートで、子どもの勉強机もなくて、20歳でデキ婚は当たり前で、母が10年間同じ服を着ていて、穴の開いた服を取り繕って。結構な額の借金があって、東京に一度も来ることのない余裕のない家計。

 

 

これは、東京の大学に入ろうがどうしようが、誰疑うことがない貧乏だと思います。

 

 

地方から上京した人間が、東京のしかるべき大学に入って感じる貧しさというものは、そういうものではない、と私は思います。

 

 

そこで「東京のそこそこの大学に入った」私が、「結局どんな大学に入っても頑張らなきゃいけないことはなくならない」「どんな大学に入るかより、そこで何を頑張ったかのほうが大事」とかと言い放つことができない*1中年のおっさんが、バブル終息期の東京にはじめて行って感じた貧しさを書いてみます。

 

 

といっても、うちは地方ではそこそこの生活水準でした。両親はどちらも大学を出ていて、父親は地方のメーカーの中堅幹部、最終的には役員に近いところまで昇進しました。父の書棚には文学全集もクラシック名曲集もありましたし、いわゆる百科事典を買わない程度には両親は知的でした。家には生まれたころからピアノがあり、母が自分で私と弟に弾き方を教えてくれました。お誕生日には近所の友達を読んでお誕生パーティーしてましたし、お習字やそろばんなどの習い事もさせてもらいました。小学校2年生の時には英語教材を買ってもらいましたし、中学受験、高校受験をし、大学に行くときには、学費はもちろん、生活費を何とか賄える程度には仕送りをしてもらいました。

 

 

今の感覚からいっても、当時の感覚からいっても、まあ、普通に中の上くらいなんだろうな、という感じだと思うんです。

 

 

でも、東京に行って驚愕したこと。

 

小学校から英語を勉強するのは当たり前。田舎では、英語教材は取り寄せないと買えませんでしたが、普通に本屋さんに置いています。そもそも、帰国子女が数人に一人の割合でいます。英語教材とか、むしろ失笑モノです*2。毎年海外旅行に行くのは別に特別なことではなく、夏休みに語学留学している人も結構います。聞いている音楽も、田舎では、よほど意識的に集めないと洋楽とか聞けないわけですが、東京の人は、当たり前の選択肢の一つとして洋楽を聞いて、普通にきれいな英語の発音に耳をさらしていました。

 

習い事も、習字やそろばんではなく、バレエやバイオリン。田舎では、バレエやバイオリンを教えているところなんて、上京してから調べてみたら、県庁所在市の最富裕層居住地くらいしかありませんでした。

 

読んでいる本のタイトルだって違います。中国の古典だって、ヨーロッパの古典だって、岩波文庫で中学や高校の時に読んでいる人がざらでした。町の本屋さんに行ったら、大学の一流の先生が書いている歴史や政治の解説本が山積みです。都会の高校生は、こういう本を、学校帰りに立ち読みできるわけです。田舎の本屋さんなんて、県庁所在市の一番大きい本屋さんにだって、そんな本はありませんし、最寄りの商店街にある本屋なんて、赤川次郎の角川文庫ばっかりで、一番難しそうな本は、講談社新書でしたよ。

学校帰りにはビッグコミックスピリッツを立ち読みしていた私と、その気になればそういう本をいつでも読める人たちが、同じ土俵で同じ問題を解かされていたかと思うと、その不公平さ。私など、大学受験の帰りに立ち寄った渋谷の大盛堂書店で、手に取った歴史の本を読んで、こんなに素晴らしい本を読める東京の高校生と同じ土俵に立っていたのかと思うと、自分の論述答案の出来の悪さと相まって、涙を抑えられませんでした。

環境だけの問題ではなく、友人の自宅に行くと、書棚にこういう本が並んでいるわけです。中学校のときに読破したと友人は言っていましたが、そういう豊かさです。

 

 

小説の「あのこは貴族」に書かれているような、慶應大学固有の分かりやすい貧富の差ではありません。親の収入的という観点では、そう大きくないであろう格差であるにもかかわらず、家系的、文化的、環境的な格差、一言でいえば文化資本の格差が、あまりにも大きく、そして生まれた時から18歳までに経験した内容が違うのです。

 

私は東京の、そこそこの大学に入ったので、そういったものを体感しましたし、東大なんかに行った同級生に聞くと、もっとすごいらしいのですが、地方から東京にでなければ、一生見ることができない格差だったのだろうと思います。現に、弟は地元の国立大学で医師になりましたが、経済的には私よりも、あるいは私の大学の同級生よりも豊かな人たちのコミュニティを見聞していますが、そういう格差はあまり感じていないようです。

 

こちらの記事(「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている)では、高卒の人は、大学に行くメリットが見えていない、ということを手を変え品を変え説明していますが、実は同じ大卒でも、地方在住者と東京在住者で違う日本が見えています。そして、いわゆる学力の高い大学でこそ、その文化資本の格差の大きさが如実に表れます。

 

最近は、経済的な理由で、東京のトップレベルの大学に入れる学生が、あえて地元の国立大学に行く傾向が強まっていると聞きます。まあ、旧帝大がある地方中核都市ならば多少はそういう文化資本の蓄積がある人間集団が存在するのかもしれませんが、地方の人が地方に収まり、東京の人が東京の特定の知的資本を独占する傾向が続くと、日本の、そういう意味での格差は、広がる一方であろうと思われます。

それは日本という社会全体にとって良いことなのかどうか、結構疑問であるように思います。一方で、高校までそういうものを見ることなく、学力だけが取り柄で東京の良い大学に入った人が、その文化資本格差ゆえに挫折し、ある種の壁を乗り越えられなくなる事例も見るわけで、個々人にとってそういう格差を知ることが幸せなのかどうかはよくわからないとも感じたり、難しいなあと思います。

 

東京の大学に入って、地方出身のうちが、どれだけ文化資本的に貧しいか、思い知らされた20数年前のことを思い出して書いてみました。

 

(参考図書

あのこは貴族

あのこは貴族

 

 

 

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

 

 

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

 

 

 

 

*1:私などは、もっと受験勉強を頑張れば、就活とかでもっと頑張らなくて済んだのではないかと思わざるを得なかったわけで、「どんな大学に入っても頑張らなきゃいけないことはなくならない」なんて言えるのは、限られた1~2の大学に行った人だけだと思っています。

*2:そういえば、当時はテレアポで新宿の高層ビル街に呼びつけて英語教材を高く売りつける詐欺的商法が流行っていました。英語教育を十分に受けられなかったコンプレックスに付け込む商売だったんだろうな、今思えば。